御祭神

日枝大神(大山咋神おおやまくいのかみ国常立神くにのとこたちのかみ伊弉冉神いざなみのかみ足仲彦尊たらしなかつひこのみこと

相殿 菅原大神(菅原道真公)・稲荷大神(宇氣母智神うけもちのかみ)・浅間大神(木花佐久夜比売命このはなのさくやひめのみこと)  

御神徳

大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山・水を司り、大地を支配し万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う御神徳は広大無辺です。 また相殿に鎮まります菅原道真公は至誠・孝道をはじめ学業、詩文・和歌、書道の神として、木花佐久夜比売命は見目麗しき女神であり、子授け・子宝、安産、災害除けの神として崇敬されています。  

御由緒

日本橋日枝神社は天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入城、日枝大神を崇敬されて以来、御旅所の存する「八丁堀北嶋(鎧島)祓所」まで神輿が船で神幸された事に始まります。 寛政十二年(1800)の江戸名所図会巻二では、神主樹下氏持ちの山王宮と別当観理院持ちの山王権現の遥拝の社が並び建ち、隔年六月十五日の山王祭の際は、この二社の手前に仮殿が設けられ、永田馬場の本社からの神輿三基を中心とする供奉行列の神幸があり、実に大江戸第一の大祀にして壮観であったと伝えられています。 境内地には天満宮、稲荷社、浅間社のほか、山王の本地とされる薬師堂や閻魔堂も建立され、縁日や勧進相撲も行われていました。 明治元年神仏分離令により薬師堂と同別当智泉院の敷地は境内から分離されました。明治十年に山王宮は無格社日枝神社に、大正四年には本社の官幣大社昇格に伴い日本橋日枝神社と改称されました。現在の社殿は大正十二年九月の関東大震災後、昭和三年に造営され、境内末社(北野神社・稲荷神社・浅間神社)が合祀されました。昭和二十年三月の東京大空襲により罹災しましたが、直ちに補修を行い、昭和四十一年に御屋根葺替と大修理を加えました。平成二十二年には再び、老朽化した社殿に外装工事を施し今日に至ります。なお正面の石鳥居は、万治年間に本社石階段下に設けられましたが、昭和三十六年に現在地に移設されました。

PAGE TOP